1972-05-25 第68回国会 衆議院 公害対策並びに環境保全特別委員会 第22号
○萩野参考人 お答え申し上げます。 満足いたしております。特に骨においても満足しております。
○萩野参考人 お答え申し上げます。 満足いたしております。特に骨においても満足しております。
○萩野参考人 そしてもう一つ。私は、Dの過剰によってじん障害が起こるという先ほどの御発表に対して、いま詳細なデータを持っております。そして、私がいま思うことは、三十七年のことが私の頭脳によみがえってまいります。なぜ日本の学会というのはこう狭量なんであろうか。私は三十七年のときにカドミウム説を唱えた。徹底的に罵倒された。鉱山から金を取ろうとする悪徳医師という汚名を着せられた。いままた、萩野の言うことはでたらめであるという
○萩野参考人 萩野でございます。 実は私、きょうは生野の問題でお話し申し上げると承ってまいりましたが、いままでのお話を承りますと、医原論に対しまして、つまりイタイイタイ病自体に関しての討論のような気がいたします。考えてみますと、この問題は国会のこの場で議論をするとなると、あまりにも時間がない。なお私はこの問題に関しましていまデータを集めております。近く国際学会に発表するという考えでおりますので、その
○萩野参考人 お答えいたします。 神通川のイタイイタイ病は、七十キロほど上流の鉱山排水が流れ出まして、流されまして、地形の関係上、下流の、山脈が切れて平地に移るところに比重の関係でたまって、そしてこの汚された水を飲み、そのかんがい用水によって養われた瑞穂、稲でございますが、稲の中に吸収いたしまして、これらのものを食べて発病しておるのでございます。ですから、非常に長いキャリアが必要で、疫学的に、統計学的
○萩野参考人 同じ公害を研究してまいりました医師としての立場からお答えいたします。 私たちは症状固定という意味を使ったこともございますが、メチル水銀の場合に、おかされた脳細胞はまずほとんど回復しないというふうに理解しております。ですから、症状固定というように見えましても、だんだん悪くなっているのではないか。特に人間は三十をこしますと老化現象が目立ってまいりますので、老化現象とともに症状が悪化する、
○萩野参考人 富山県婦中町萩野病院、萩野昇でございます。 ただいま小林教授からカドミウムとイタイイタイ病との因果関係につきましてるる御説明があったのでございます。私は許された時間内に、カドミウム公害と黒部市との関係、イタイイタイ病との関係等について御説明申し上げたいと思っております。 昭和二十一年に富山県の神通地区で一種ふしぎな骨の折れる病気を発見いたしましてから二十五年間、この解明に努力してきたのでございます
○参考人(萩野昇君) お答えいたします。 まことにありがたい御質問でございます。私、こういうものをここへつけまして何ら報告いたさなかったのでございます。その意味がどこにあるかということを御指摘いただいたのでございます。石崎先生お帰りになる時間、ほかの質問の方おいでなさるのではございませんか。——ではちょっとだけ。実は私は御存じのように、先ほど黒木理事から御質問がございました——私じゃなくて、高柳先生
○参考人(萩野昇君) 安中の場合に、呼吸器をおもな侵入経路と書いたのでございまするが、あとの説明で若干水からも、というふうにつけ加えてあります。カドミウムで呼吸器から入った事例は日本にはございません。なぜかと申しますと、現在、日本のカドミウムの製錬様式が浮遊法、岩石を縦軸としてクラッシャーにかける。ボール・ミルにかける。その前の時点で水に入れてしまうのです。ですから、粉末として出ないのでございます。
○参考人(萩野昇君) 萩野でございます。一番最後の証人でございます。若干重複する点もございますが、私が今日まで対馬、安中における患者の発生状態、その地区のカドミウムの汚染状況との因果関係、こういうことについて御説明申し上げたいと思います。 今日までに対馬に一回、安中に二回出かけまして、その地区の患者をつぶさに調査したのでございます。 富山のイタイイタイ病の原因がカドミウムであり、その排出源が神岡鉱業所
○参考人(萩野昇君) お答えいたします。 私の説明が若干足らなかったことをおわびいたします。これは、あの土地で生まれて、あの土地に住んでいる人は三十数歳、十六ないし二十歳であの土地に嫁して来た人は五十数歳で発病するという私の臨床経験の統計から言いますと、まず三十年間カドミウムを食べなければ発病しないのじゃないかと思っております。そうしますと、その期間において濃厚なカドミウムが流れて来た時期がございまして
○参考人(萩野昇君) 先ほど私が証言いたしましたように、土壊の中から稲の根がこれを選択吸収して三五〇〇PPM、白米の中に三五〇PPM入っている。この事実からいいましても、たとえ少なくても現在あるのですから、それを選択吸収する、それを食べれば私は起こり得ると思う。ということは、私が終戦直後あの地へ帰ってまいりましたときのあの悲惨な状態と、三十年以降現在の状態とは一変しているのだと——そんならいま出ないかという
○参考人(萩野昇君) 萩野でございます。私は、現地に昭和二十一年の三月に復員してまいりまして、家業の萩野病院を継いだのでございますが、診療に従事してみますと、患者さんの中に、いままでわれわれが大学で習わなかったような、また書物で読まなかったような一種ふかしぎな神経痛様疾患が非常にたくさんあるのを発見いたしました。そこで何とかこの悲惨な病気をなおしてあげたいという気持ちで今日まできたのごでざいます。